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わたしのブログ

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続きです。

ソ満国境でソ連軍が発砲してきたそうだ。全満が緊張した。
 スイカ鳥などしてはいられなくなった。それからは手留弾を二発づつ持足された。これはどえらいことになってきた。しかし、患者に知らせることを禁じられた。私はこの先どうなるのか?真剣に考えざるを得なかった。
 全て運命という見えざるものが動いていた。チャンス、というものも見逃すことは出来ない。私は私なりに見定めていくことにした。
 八月頃、看護婦が来て「外科病棟に来るように」行って急いで帰った。「これはのっぴきならない事態になったのだろう。」そう思って直ぐに行った。外科でも二人づつはいる個室の廊下に衛生兵が十数人いて、担架にで外に毛布に包まれた遺体を運び出していた。部屋にはいったら軍医がいて一人の患者に何か言おうとしている。「本日陛下の名により戦争は終わった。これから奉天にし融合するがお前は到底動かせない.動けば苦しいだろう。咳も出る。本館が楽にしてやろうと思うがどうだ?」心なしか軍医も動揺していた。患者は小さな声で「ハイ、判りました。お願いします。」と言って力なく自分で胸の上に手を合わせた。
 軍医は「そうか」と言って静かに肩へ注射を打った。患者はそのまま静かに死んだ。一千五厘で駆り出され、この満州の血に果てる哀れな光景である。
どこから来たのか県名も名前も知らない。右のわき腹からゴム管が出ていた。病名は化膿性胸膜炎だった。かなり若い兵士である。
 このような姿で死んでいく者が全満地区で何千人といるだろうと思ったら涙が止まらなくなった。この日が私の終戦日であった。
 遠くに火葬場の煙が見えた。この日より、本院まで四キロある道をトラック十台位で本院終結を手伝うことになった。歩ける患者全員内科も外科もなく運ぶのである。
 私は各病棟に行き「歩けるものは早く集まれ。もたもたしていると置いていくぞ。」と大きな声で回って歩く役だ。歩ける元気な患者は皆営庭に集めて四列に隊を組み軍歌を歌いながら錦県駅まで行く。


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